アメリカ通信−シリコンバレーの風−

シリコンバレーの風 Vol.4

耳元でバサッと言う音がしたかと思うと、後頭部に何かが当たった。
先週の朝7時、散歩の途中の出来事です。目が開けられないほどまぶしい朝日の中で足元を見ると、ウズラがあわてて片方の羽をフル回転して急上昇中。やっとのことで近くの木の枝にたどり着き、かなり罰が悪そうにこちらを見ました。

この通りの名前はウズラ通り(ボブホワイト通り)、隣の通りの名前はアオサギ通り(ビッタン通り)、です。ゆっくりと時が過ぎる当地シリコンバレー(以下 SV)にあっては、鳥までものんびりしているのでしょうか。

5年前のバブル期最後の年、2000年は違いました。インターネット関連でxxx.com(ドットコム)がついている会社であれば、投資家の誰もが争ってお金をだしたがった最後の年。筆者もごたぶんにもれず、勢いでいくつか投資を決定し、会社に迷惑をかける結果になりました。

我々家族がSVに赴任したその2000年末、ある日、日本から来て数年の、社内の優秀な技術系のM中堅駐在員が顔を引き締めて私の部屋に来ました。

“当地友人Sさんと起業したいので、SVで退職したいと思います。”

聞いてみると詳細は十分理解できないものの、米国市場で今後広がる可能性がある、いわゆるセキュリテイ分野の製品開発と販売プロジェクトでした。外回りや外出中の社員が自分達の会社にあるコンピューターに安全にアクセスできる方法を組み合わせた、面白そうなシステム開発。事業計画書を読み、一夜考えた末、社内でスピンアウトした形のベンチャーとして支援することにしました。

そのベンチャーA社で開発者が徐々に増え、M君を始めとする起業家達の手金と我々からのシードマネーの五千万円が、アット言う間になくなった10ヶ月後、幸い製品Sの原型が現れ、新たに日系のVCが次の増資に応じてくれました。

ここまでは順調でした。まさに、昼夜を惜しまず開発に没頭する起業家達を目の当たりに見て、熱い心まで共有させてもらいました。天才的なひらめきのロシアから来た技術開発部長のG君。後処理やプログラム書きを担当するHさん。

Hさんはインドのバンガロー出身。バンガロー人脈をフルに使いプログラム書きをインドの協力下請けに見事に振り分けるとともに、次々と成果物を回収、そして製品Sの第一号機ができました。インターネットプロトコール(IP)時代の“ピアtoピア”と呼ばれる分野の先駆けともなる製品です。

ところが一号機の形が見えると同時に、米国でのIT市場のバブル崩壊が始まりました。顧客筋は一斉にリストラを開始しました。人員を大幅に削減するとともに、生産性の向上や、経費削減に貢献しない製品の購入がほとんど止まりました。

もくろんでいた市場そのものが急激に縮小してしまった訳です。しかも、製品Sの米国での市場調査を続けた結果、購入決定に大きな影響を持つ顧客会社群の情報システム部が社内のシステムの統一に混乱をもたらすと判断し、商品Sの推薦はおろか導入に反対する可能性があることがわかりました。

大きな壁が立ちふさがってしまいました。
融通がきかない全社統一システムをうまく迂回して、実際のユーザーである事業部レベルの皆さんが、独自にネットワークを簡単に構築できる製品である点が売り物でした。その製品Sの“柔軟性”が、逆に災いしました。
全社統一システムのルールが厳しい米国にあっては事業部レベルの意見は通りません。米国でのマーケテイングは、完全に暗礁に乗り上げることになりました。とうとうA社が開発した知的所有権(IP)を他社に売却して清算する案まで検討されました。A社がスタートして二年目、2002年の春を過ぎていました。

全く考慮されていなかった日本市場が突然浮かび上がってきたのはこの時です。誰もが米国市場で成功した後に考えればよいと思い、日本市場向け販売は当初から事業計画にも全く考慮されていませんでした。

事業部や、工場ごとの採算が尊重される当時の日本企業では、各部署ごとにセキュリテイ付きで柔軟な通信網が簡単に作れる提案はかなり魅力ある新製品であったようです。この新製品Sをコアにしたさまざまな提案が、次々と日本の客先に届けられました。幸いなことに、日本での売り上げが徐々に伸びてきました。
A社は日本市場に集中するために、米国のほとんど総ての人材と資金を急遽設立された日本支社に投入することになりました。本社であった米国会社は最小限の人数で引き続き開発のみに専念し,同時に米国本社を子会社に、日本支社を本社とする本支店の逆転計画が取締役会で承認されました。

この逆転計画実行の際、最後まで頭を痛めたのが米国本社にあった製品Sの知的所有権(IP)を日本支店に移転する際の税金問題でした。赤字の米国会社であっても、一旦日本の子会社に知的所有権を売却すると、売却益に対して米国で高率の税金を支払わなければなりません。詳細は触れませんが、この問題を解決するために、弁護士や公認会計士の力を結集して多くの時間を費やしました。係わったチームにはかなりのノウハウが残りました。

無事、日本支社を本社に変更して人材、資金も調い、大きく成長するための攻めの準備ができた矢先に、日本でもITバブルがはじけました。米国と同様、急激に市場が小さくなり売り上げの増加も止まってしまいました。
先行企業としてのメリットが生かせなくなったのです。A社の業績は低迷し、資金不足で新しい製品の開発もできなくなりました。生き残りのためのリストラが必要となり、最小限の人数が残りました。昨年度からセキュリテイ関係の製品が注目され、その波に乗れるかどうかが今後のA社の分かれ目になるでしょう。

ベンチャーの成功確率はそんなに高くありません。只、10件、20件にひとつでも大成功すると一挙に回収、大もうけが可能です。いかに製品が優秀で二世代先のものでも、市場が受け入れなかったり、市場への投入時期が少し早いだけでミスマッチが起こります。ベンチャー投資はこのリスクを見誤ると失敗をします。かなり市場や製品群に精通しているつもりでもこの見極めは簡単ではありません。

最近の傾向を見ると米国市場はムードのみでは、もう大きく踊らなくなりました。 当地で本年上場し、その後株価を三倍にした成功事例のグーグル社(インターネットの検索エンジンンのみで当初スタートした。)のように例えベンチャー企業であっても、10年単位の支援と粘りが必要なのかもしれません。
最近の日本でのベンチャー企業の公開を見るたびに、5年前に当地で感じた“ふわふわ”した気配を持つのは筆者だけでしょうか?

A社は未だ苦労しながら日本での営業を続けています。何度かの増資を経て日本のVCがすでに経営権を握るA社に対して、我々エンジェル投資家が取りえる手段はほとんどありません。

ベンチャー投資の成功例は次の機会に。

著者 : 道高幸彦(みちたかさちひこ)−Sachihiko (Mike)Michitaka

シリコンバレー在、Ocean Seven Consulting, LLC ファウンダー & CEO.
日商エレクトロニクス(株)顧問役、(日商エレクトロニクス米国会社ボードチェアマン)。在米19年、2000年夏よりシリコンバレー在住。

米国IT会社マネジメント兼、コーポレートベ ンチャーキャピタリス ト(CVC)。 IT分野で数々の投資及び,日本市場での米国先端IT製品の販売を成功させている。 数多くの日米会社経営を経験、また地元シリコンバレー地区青少年更正センター理 事 などのボランテイア活動の他、CVCや経営指導者として日系起業家支援を続けている。

2005年6月末、日商エレクトロニクス常務執行役員及び米国法人社長を退任。
同年、7月シリコンバレーでマネジメントコンサル会社Ocean Seven Consulting, LLCをファウンダー・CEOとして設立。

1992年: 日商岩井米国法人 副社長
1996年: 日商岩井 情報産業本部副本部長
関係会社担当。ニフティ、インフォコム,フュージョン等の役員を歴任。
同志社大学卒、ハーバード ビジネススクール PMD コース修了
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