TOP > 連載 > 欧州危機の根源 第二次大戦後の世界経済、通貨体制

欧州危機の根源①

著者:リッキービジネスソリューション株式会社 取締役 市島 慎ニ

「欧州危機の根源」と題して4回のシリーズでかいつまんで第二次世界大戦後からの世界金融の枠組み変化とそれに伴い発生した諸問題、その延長として起こった欧州危機についてお話ししたいと思います。

日本では一昨年の今頃、ギリシャの国家的危機、そこから発生する欧州危機(ユーロ圏経済、通貨ユーロ、ヨーロッパ共同体の先行きなど)が大きく取り上げられていましたが、昨今はさほど「危機」といった認識ではないようです。これは2010年設立の欧州安定化基金(EFSF)、またその後継機関として昨年より発足した欧州安定メカニズム(ESM)などがつっかえ棒としての役割を果たしていることと、2011年11月にトリシェ総裁の後任として就任したECB(欧州中央銀行)総裁のドラギ氏の手腕によるところが大きいものと思われます。ドラギ氏のLTRO(Long Term RepurchaseOperation, 合計約140 兆円規模の金融機関への3年もの資金供与) が大きく効いております。

欧州経済には復調の兆しが見えつつあり、危機は遠のいたとの見方が有力ですが、LTRO の期限切れ2015年16年辺りにまた大きな山が来るかも知れません。その様な認識を持って今後ヨーロッパの行方を日々追って理解する事も重要と思われます。その際に、第二次大戦後の大きな国際金融の流れと、ソ連邦崩壊後の世界経済金融化、グローバル化の流れを頭の片隅に入れておくことも肝要ではないかと思い「欧州危機の根源」といったタイトルで、第二次大戦直後のブレトン・ウッズ体制の成立から今次欧州危機に至るまでの経路の概略をお話ししたいと思います。


第二次大戦後の世界経済、通貨体制

ブレトン・ウッズ体制の発足

第二次世界大戦が終息したのは1945年8月15日ですが、早々にイタリアが終り、ドイツ、そして最後に日本の敗戦となりました。その1年前1944年7月に連合国(アメリカ、イギリス、フランスなど)が、早々とアメリカ、ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズという所で、戦後の世界経済や通貨体制をどう作り上げていこうかと相談するため集まったのです。

この時、イギリスからはあの高名な経済学者ケインズ卿も参加して、喧々諤々の議論を展開したようです。ケインズは世界通貨バンコールの創出を主張。これに対しアメリカはドルを世界決済通貨とするドル本位制を主張しました。

ブレトン・ウッズ体制が協議されたマウント・ワシントン・ホテル

その結果として、アメリカ主導の体制が出来上がり、これをブレトン・ウッズ体制というわけです。ポイントはIM F(International Monetary Fund)と世界銀行(International Bank forReconstruction and Development) の設立をみて、ドル本位制による世界通貨制度と、欧州復興を目指す世銀の2軸を確立しました。何といっても手早いですね。終戦の1年以上前から相談を始めて…、ともかく通貨体制としてはドル本位、固定相場制を採用したわけです。

その体制下で決まった日本円とドルの交換レートは1ドルなんと360円だったのです。(闇レートは400円近かったといいます。)

この体制下では、金/ドルの交換率を35ドル=金1オンスと決定し、ドルと金の交換を保証(= 金兌換制度)しています。(1トロイ オンス = 31.1 グラム)現在の金価格は、1オンス当たり1300 ドル位ですので、その差には驚愕すべきものがあります。
 この35ドルという兌換レートは1971年8月のニクソンショックまで維持されたわけです

ニクソンショック

 こで話は一気に1971年に飛びますが、それまでにアメリカの国際収支の赤字が累々と続き、ドル危機・ドル信任問題が長らく議論されていました。

 結局この1オンス35ドルという固定話してきたのですが、忘れていけないのは、戦後は米ソ対立、即ち東西対立問題がずっと背景にあり、スミソニアンだろうが何だろうが、今まで話していた事は全て西側諸国の話だということです。

 インフレも西側の根底を揺るがす問題として捉えられていたと思います。

スミソニアン協定が結ばれたスミソニアン協会本部

資本主義が滅び、共産主義が世界を制覇するのかと言った地球規模の問題だったと理解して下さい。その結末を皆さんは知っているのですが、その頃はまだ共産圏に負けてしまったら大変、何とかしなければといった感じだったのです。
 そこでアメリカ連銀のボルカー議長の登場になるわけです。

FRBボルカー議長の登場

 ボルカー議長は、従来の金利操作重視の金融政策ではなく、シカゴ学派の通貨供給量の直接コントロールによるインフレ退治に着手しました。(これをボルカーショックといいます。)

 ともかく、マーケットの短期金利が18%あたりといった、とんでもないレベルになって、長期より短期が高いという「逆イールド」の世界になりました。このあたりは、ケインジアンは役立たずでシカゴ学派、マネタリストが幅をきかすといった時代だったでしょう。今は逆に、デフレ回避のため又「有効需要」のケイ ンジアンの出番かも知れません。



プラザ合意

何はともあれ、ようやくインフレ退治が一段落したころに、再びドルの問題、即ち連綿として続くアメリカ経常収支の赤字で、その故にドルの信認問題に発展するかといった状況で、一気にドルを他通貨に対して下方に調整する必要があるとアメリカは判断、プラザ合意を作り出しました。そして、1985年9月に各国通貨の対ドルレートの再調整がなされ、円は1ドル250円となり2年後の87年には120円に一気に切り上がったわけです。

プラザ合意が結ばれたプラザホテル

 同じ87年9月にはブラックマンデーというのがありました。これは米国の株式相場が一日で一気に23%も下落すると言うショッキングな出来事でした。このときは米株売りの一方、多量の米国国債の買いが入って、てんやわんやの騒ぎになりました。ブラックマンデーはボルカーの後任のグリーンスパン米国連銀議長がなんとか凌いだという事になっていると思います。

 このように西側経済もサーカスのような様相を呈していたものの、東側諸国ソ連邦をはじめ、もっと酷いことになっていて、ソ連のインチキ経済統計を見抜くエコノミストが出てきたりし、ソ連の破綻を予言して憚らない状況となってきました。 この時期1981年から89年までアメリカ大統領だったのはレーガンさんです。レーガンさんは抜群の人気を背景に「スターウォーズ作戦」と称して、宇宙での軍事的優位を目指す事を含めた対ソ強行路線を挙行。見事、ソ連邦を崩壊に至らしめました。 結局東側には、そのような軍備競争を支えるだけの経済力を持ち合わせていなかったという事でしょう。 ベルリンの壁崩壊が1989年11月、ソ連邦崩壊が1991年です。

◆市島慎二(いちしま しんじ)
日本興業銀行常務、みずほ証券副社長、アジア開発銀行財務局長、ロイヤルバンクオブスコットランド日本会長など国内外の金融の要職を経て、現在はリッキービジネスソリューション株式会社の取締役を務める。