
▲ 株式会社菓匠三全
代表取締役社長 田中裕人氏
仙台に出張に行くなら「萩の月」を買ってきてほしい、と会社でリクエストされたことはないだろうか。おみやげ菓子といえば、「萩の月」というほど全国ブランドになっているこのお菓子を製造・販売しているのが菓匠三全である。
年間160種類の和洋菓子を製造販売、仙台市を中心に80の店舗を展開。創業者である同社長の父の科学者精神のもと、常に新しい商品開発にチャレンジしてきた同社の創業秘話や、銀行に期待することなどについてリッキービジネスソリューション澁谷耕一がお話を伺いました。
(澁谷)
会社の沿革と製品について教えてください。
(田中社長)
菓匠三全は、先代である私の父が昭和22年に創業しました。現在は年間160種類の和洋菓子を製造販売していますが、創業当時は飴をつくり、販売しておりました。
父は20代後半に、科学を志しました。生まれ育った北海道の夕張で小学校の教員をしておりましたが、思うところがあって、当時の東京物理学校今の東京理科大学に入り直し、卒業後は戦闘機で有名な中島飛行機でエンジニアとなりました。その後研究所に移り、真空管の研究に携わりました。ところが終戦を迎え、父は一念発起。開墾地で農業をすることになったのです。当時、祖父母と私を入れて子供が3人の、計7人を食べさせて行く為に、研究職を諦め、農業を選んだようです。食糧難だっただけに、農業をすれば食べ物に困らないだろうという思いもあったようです。
父は20代後半に、科学を志しました。生まれ育った北海道の夕張で小学校の教員をしておりましたが、思うところがあって、当時の東京物理学校今の東京理科大学に入り直し、卒業後は戦闘機で有名な中島飛行機でエンジニアとなりました。その後研究所に移り、真空管の研究に携わりました。ところが終戦を迎え、父は一念発起。開墾地で農業をすることになったのです。当時、祖父母と私を入れて子供が3人の、計7人を食べさせて行く為に、研究職を諦め、農業を選んだようです。食糧難だっただけに、農業をすれば食べ物に困らないだろうという思いもあったようです。

▲ 現在の工場
秋になって収穫物のなかにサツイマイモがありました。それを見た科学者の父は「これで飴が作れる。皆甘い物に飢えているから、よく売れるのではないか」と思いついたのです。実際、これがよく売れました。そんな経緯で、昭和22年に、菓匠三全の前身がスタートしたわけです。
戦後の混乱も徐々に落ち着き澱粉(でんぷん)の統制が解けると、飴は大量に造られる時代になりました。そこで次に目をつけたのが「かりんとう」です。他で扱っていないものをと工夫を重ねて、白い生地に赤い生地を重ねて巻いた「うず巻きかりんとう」。これがまたよく売れて、年々売上をあげるなか、「田中製菓工場」として工場を建てるほどになりました。昭和28年のことです。
(澁谷)
会社に大きな転機があって、「伊達絵巻」の販売に至ったと伺いましたが。
(田中社長)
そうです。東京オリンピックを境に「かりんとう」も徐々に他のお菓子に押されはじめ、父は競争のない独創的な仕事をしなければダメだと思ったのです。ちょうど石油ショックで、当社も資金繰りが苦しくなった昭和45年当時の話です。
父は好奇心が強く、東京に行っては、今流行っているものを見て歩いたり、体験してきたりということが好きでした。もちろん、取引先なども多くあったので、定期的に行っていたということもあります。そんな東京からの帰り道、新しいことをやらなければと思い悩みながら、帰りの電車に乗ったそうです。すると駅の構内で、宇都宮名物「宮の餅」が販売されていました。それを見て、ふと「おみやげなら独自のものがつくれる。仙台名物をつくればいい」と思いついたのです。
当時、NHKの大河ドラマで『樅の木は残った』が話題になったばかりで、仙台は観光地として賑っておりました。そこでドイツのバウムクーヘンにヒントを得た新しいお菓子を作り、「伊達絵巻」と名づけました。ひとつ一つをきれいに包装して、立派な箱に入れ、「仙台銘菓 伊達絵巻」として売り出したのです。当時は、私も学校を卒業して販売担当として戦列に加わっておりましたが、最初は「聞いたことがない」と言うことで、デパートでは置いていただけませんでした。ところが仙台空港での販売をはじめた途端、矢のように売れはじめました。そこからはもう、デパートでも鉄道弘済会でもどんどん売れて、おみやげ菓子としてのわが社の礎ができたのです。

(澁谷)
そして「萩の月」の誕生に至るわけですね。
(田中社長)
はい。「伊達絵巻」の大ヒットをきっかけに、わが社は直営店の展開もはじめました。そこで売る新しいお菓子として、当時一番売れているシュークリームと、贈答品として人気のあったカステラの良さを合わせた商品ができないだろうかと模索し、開発したのが「萩の月」です。ところが、とてもおいしいのですが、日持ちしない。冷蔵ケースの中で売れ残っては捨てるような有様でした。私はこんなおいしいお菓子なのだから、店頭で売るより、おみやげとして広く売れるようにすべきだと強く思いました。ただ、日持ちのするシュークリームなんて、世の中にありません。それをやろうというのですから、並大抵のことではありませんでした。

▲ 萩の月
そこで父の研究者魂が発揮されました。まず大変だったのが、日持ちをさせるための工夫。普通なら食品添加物の保存料を使うのでしょうが、父には『我が子に安心して食べさせられるお菓子を』という強い思いがあって、わが社では添加物を使わない。どうしようかと頭を悩ませているときに、東京の三菱ガス化学さんから、酸素を取り去れば菌の繁殖を抑えられるとのご提案がありました。そこで脱酸素剤エージレス®のお菓子への転用に共同で取り組みました。開発に3年以上かかりましたが、うまく実用化でき、食品業界への脱酸素剤利用の、先鞭をつける結果となりました。開発途中では鉄粉のニオイが残るという問題にぶつかりましたが、これは活性炭の利用で、乗り切ることができました。こうして、時間はかかりましたが、おみやげ菓子の「萩の月」が誕生したのです。
売り出す前に仙台―博多間の機内食に採用されました。これがおいしいと好評で、どこで売っているのかと評判になりました。苦労してがんばった甲斐があったというものです。
(澁谷)
何回も危機に合われながらも、ここまで発展なさったとのことですが、銀行とはどのようなお付き合いをされてきたのでしょうか。
(田中社長)
危機といえば、「萩の月」が売れて、もっと生産するためには億単位の投資が必要、という難題がわが社にふりかかってきました。もし失敗すればそれこそ倒産ですし、大した担保もない父と私はそのことで四苦八苦していました。そんなとき、融資のご決断をいただいたのが、七十七銀行さんです。今考えても、このときのご判断には頭が下がります。おかげさまで、その後のわが社は売上が、3億円・・7億円・・60億円と急速に上がっていきました。創業以来、資金繰りには何度となく苦労してきましたが、あの時が一番大変な時期だったと思います。ただ、飛躍に向けたあの投資があったからこそ、今のわが社があります。七十七銀行さんには、その後も何かとアドバイスをいただき、ときには厳しいお言葉を頂きますが、よきアドバイザーとしてずっとお付き合いいただいております。
(澁谷)
今後、七十七銀行に期待することや要望などあればお聞かせください。
(田中社長)
われわれはお菓子の道を60年歩んできましたが、世の中の動きや経済の動きを読むという部分ではプロではありません。銀行はその道のプロとして経営指導をしていただきたいと思います。
「萩の月」の設備投資面では、銀行という立場からご指導いただき、順調な発展をして参りました。客観的な指導を頂くと、最初は小さくてもどんどん強く良い企業に押し上がっていきます。そのような会社はたくさんあるのではないでしょうか。銀行の視点で活力ある会社を開拓し、世の中の活性化に貢献していただきたいですね。それは我々の力の源となり、最終的には銀行の財産となるでしょう。共存共栄というのでしょうか。強い信頼関係が築いていければと思います。
(澁谷)
今日はどうもありがとうございました。
-会社情報-
| 社 名: | 株式会社菓匠三全 |
|---|---|
| 事業内容: | 「萩の月」をはじめとする約160種類のお菓子の製造・販売並びに研究・開発 |
| 本 社: | 〒989-1293 宮城県柴田郡大河原町大谷字保料前18 |
| 設 立: | 1947年10月15日 |
| 資本金: | 1億円 (2007年11月現在) |
| 社員数: | 400人 (2007年11月現在) |
| URL: | http://www.sanzen.co.jp/ |
(2007/9/22 取材)|(2007/11/27 掲載)



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